2022.08.23

 出張の疲れが抜けず体が重い。7時の目覚ましを7時半にセットし直して二度寝。結局8時まで延ばしてさらにスヌーズ機能を使って起きた。一日休めばいいんだろうけど、全然休めるタイミングがない。今年、というか思い返せば去年のいつ頃からか結構ずっと忙しい。

 

「だから残業して、ご飯食べて、寝るだけだ。そんな毎日が続いている。そうして日々が過ぎて行き、気がつけば年を取ったのだろう。気がついただけでもいい。僕はここにいるのだから。」
 友人のチームが開発したシステムのテストに参加しており、動作の確認として最初の文章を書いて放置。行き詰るとAIが続きのアイディアを出してくれるとのことで出てきた続きがこの文章だった。
 AIのべりすとで遊んだり、遊んでいる人を観察したりしているのでもはや続きの文章として違和感がないことに驚きはないな、という状況に驚いてしまった。しかし日記という性質上、自分の考えや出来事を書く場なので、さてこいつをどうしたもんかな、と思ってはいる。
 ちなみに私が今年度から趣味で作ろうとしている自分の文章データを読み込ませたAIは、架空の自分の分身が私とは別の一日を過ごした記録を日記に残すことを目的としているんだけど(それを読んで自分が面白がりたいだけ)、読み込むデータを自分の日記もしくは日記形式のものだけに限定すれば↑のように小説っぽい文章以外の文章も生成されるのだろうか。あと、一気に1000文字程度AIが補助なしで一人で書けるようになるのだろうか。いままで触ってきた文章AIはそういうタイプのものがなかったのでその辺が謎。あと、転職活動やら仕事で普通に今年中に全然作れる気がせん。

 

「年末年始は集中しよう。 プログラミングでも趣味でも漫画でもゲームでも、勉強やプロジェクト、仕事、などなど、やりたいことをやるために全力で時間を使って、満足して、寝て、起きた、そんな毎日を送りたい。 それは、きっと私の生涯の目標なんだ。」
 年末なんかこんなこと言ってた気がするね。けど、そうだとしても私はもっと自分の言葉で言われたいという思いがあるな。自分が好きなので。
 ところでこのAIはそのページ(いまWeb上で文章を書いている)を開き続けている場合は設定した時間ごとに続きのアイディアを出してくるけど、ほかのタブを開いていると1度しか提案してこない。その辺が作成者の想定する文章を書く人の像が見えるので面白い。
 AWSで利用できる自動作曲AIにGenerative AIというものがあって、メロディーを入力すると伴奏をつけてくれるAIなんだけど、単純に出来上がったものは全然聞けたものではなくて、なんでかというとそのAIが付けた伴奏から人間が必要な音をピックアップして最終的な音楽として完成させるという利用方法を想定しているらしく、その発想を聞いたときすごく面白いなと思った。AIは完成させなくてもいいのか。
 AIと芸術に関しては、
「 AIと芸術に関しては、AIに芸術的な物を作らせようという発想は人間だけど、AI(というか自然)は芸術的であること以外の評価をしていないところが興味深い。」
”芸術家の仕事が奪われるのではなく、芸術家に求められることが変わってくるのだろうと思う。でも結局、AIを利用してイメージ通りの作品を生み出せる能力は、やはりAIがなくてもそれを形にできるほどの明確なイメージがある人(=芸術家)なのではないか”、というようなことを恐山が書いていて、なるほどなと思った。AIが一般に浸透したらそのように収束するような気がする。いまはAIにエモーショナルを見出そうとする向きがあるように感じるけど。
 あと上手く説明できない(というよりこのページで文章を書いているとAIが定期的に続きを提案してくるので手を止めてじっくり考えずらい)んだけど、石井僚一という死んだ父を詠んだ短歌で第57回短歌研究新人賞を受賞したが父親は普通に生きていたことで論争になった歌人のことを思い出した。あとAO入試を受けた友人が言っていた「東日本大震災を受けて被災した人が有利」とか。人が悪いと思うし、でも別に作品って文脈と切り離せるものでもないよな、とも思う。

 

「あと「表現のあり方」っていう問題とも関わってくる。もっと人間らしく、感情豊かな表現をできるのも人間だ。」
 もう私はこの話題を離れたい。日記を書けていなかった出張期間中について書きたいので。
「 すみません。 ・この本の流れ AIによって生産性は10年前に比べて3倍から4倍ほどになると予測され、労働市場完全失業率も10%まで下がるという。2045年に起こるとされている技術的特異点のことも書いている。あとあまり詳しく考えていなかったが今後については、ロボットが人間同様感情を持つことが一般的なようになったらAIとの知能戦、という可能性もあるのかもしれないと思った。この本は一応難しい問題意識のもとに書いてあると思うので、そういうことに興味がある人が読むのが向いている。 そうじゃなくて専門的で具体的な仕事のことに関心がある人は他の本を読もう。・そのあとの表現への活用 AIの歌に関して。 ・よく、AIは人間を真似して歌を詠むと誤解しているが、真似するだけなら人のように歌う必要はなく、むしろ機械なのだから人のようにはならない。そもそも、歌とは感情であり、感情とは主観的であることなのだから、機械に感情や思考が含まれることはない。だから機械に感情や思考を入れない範囲で、人と同じように歌を詠ませるのである。 ・AIに人間同様の感情をもたせることはできない。 それは人間ですら作り出せない感情があるから。作り出せないものなら創作もできない。だからその感情はAIではない。ただし、「共感」の能力はある。つまり特定の個人の視点に立って物事を見られる。(そのあと羽生結弦がAIに言われた「ジャンプの技術だけはAIには負ける」という件を羽生結弦の視点も取り入れながら説明するなど、本の一部はかなり羽生結弦に寄り過ぎている気がするが。) 感情があってもAIならば捏造されてしまう可能性はある。そこについてはAIの歌が絶賛される現在においても意見が一致していない。ただ、今の技術だとまだ無理かもしれないが、その技術は誰でも、いや人間でもできるのではないか、という意見もある。 その点は本書には書かれていないが、著者は羽生結弦の発言を肯定的に捉えている。(羽生結弦のことを羽生なら可能な範囲の機械以上の存在と思っているのでは。感情、芸術性、人間の延長、現実にはいない最高のパフォーマンス、etc) その点はいい。 だが、この論の展開には問題がある。羽生結弦の発言に関して著者は別の意見を書いている。羽生結弦の発言も一つの感情表現である。羽生結弦の表現力には限界があり、感情表現が芸術であるか芸術であるかの判断は作者自身に任されている。そういう判断をする過程で人間が感情を入れる。(むしろそこにしかその人物の本質が表れない。) しかし、羽生結弦の感情表現は機械のそれに近く、芸術作品として成立しているとは言い難いのではないか。著者は羽生結弦の発言を賛美しながらも、そのことは認めている。この「ギリギリのところ」というところがポイントだと思う。つまり、羽生結弦の言う「ギリギリ」は、羽生結弦を賛美する立場からすれば羽生結弦の満足のいくものであっても、羽生結弦の心を満たすものでない、ということ。なぜなら羽生結弦の「ギリギリ」というのは、あくまで、羽生結弦の心を満たすためのギリギリ。羽生結弦の心だけを表現するための「ギリギリ」である。そこに羽生結弦以外のものを混入してはいけない。だから羽生結弦の心を満たす表現をし続けるしかない、と著者は言っている。著者は「羽生結弦の表現する文学は詩として素晴らしいが芸術ではない。詩は文学である前に芸術である。日本の詩は難解であり鑑賞には耐えられない。だから短歌がいい」と言っている。これが本当にどこまで正しく、どこまでが間違えているのかは分からない。でも、もしそうだとすると、同じ短歌にしてもそこにどれだけの感情や内的要素が入っているのか、ということはいくらでも変わる。だからこそ羽生結弦の表現するものは芸術として高く評価される。少なくとも私はそう思う。そして、逆にそれはある程度正解に近いのでは、という気もする。 「でも、人間も機械であることに変わりはない。機械としてなら感情が入ってもいいのだ。人間の感情が入れられないものだけが芸術ではないだろう。」 ここで少し気になるのが、ここまで読んできて、「じゃあ羽生結弦の歌は芸術なのか?」と思うこと。 羽生結弦を賛美する本であるのだから羽生結弦の表現のことを」

 

 AIが生成する文章がめちゃくちゃになってきたので一旦文章をリセットした。出張について書く。

 金曜日午後から出張。大阪の推しの南伊料理屋を予約してあったので訪ねると、バリスタの方に「やっぱり7月くらいに東京から来てくれたかたですよね?」と言われる。行ったらわかるかもしれないと思いつつ、予約の段階で把握されているとは思わず驚いた。普通も普通な苗字なのに。
 「そうです~」と答えながら、以前と同じカウンターの席に案内してもらう。今回はワインを頼もうと思ったら「全部で一杯程度になるように少な目にペアリングしましょうか?」と提案していただき、ありがたく提案を受ける。
 バリスタとシェフと話しつつ、ワインを「あ、ごめんなさい。普通に入れちゃった!」とか言われながらぐびぐび飲んで、途中で常連さんも加わり「ボトル飲み切れないから飲んでね」「ありがとうございます」とさらに追加でワインを飲み、たぶん最終的に3杯分くらい飲んで、時間も23時半で、楽しくてふらっふらくらっくらで、明日仕事だし吐けそうな気がするし吐くか(指入れて吐くのはできないんだけど、この日は吐こうと思えばそのまま吐けそうだった)と思って駅のトイレに入って便器を見つめた瞬間めちゃくちゃ吐いた。正直吐くまでもう少し苦労するかと思いきや一瞬で、デザートの甘味から前菜のバジルまで順番に綺麗に全部吐いた(2回ずつ流して計6回)。

「もうなにこの人間力。 こないだGANG PARADEのライブに行って、「もう、自分のバンドやらないかなあ」と思った。でも、そんなことを言うとメンバーから「じゃあ人様のバンドに入ろうぜ」とかなんとか言われる可能性があるので言えない。別にやるやらないの話だけでメンバーが音を切るわけではないし、ライブ出ちゃえば出るなりの責任と義務が生まれるからね。だから何も言わない。 僕はBiSHが大好きだけど、別に彼女たちのファンというわけでもないし、「そもそもこのバンドって?」という疑問はある。だから好きになるきっかけもわからないし、これから先もっと好きになるかもしれないし嫌いになるかもしれない。つまりはわからないし、好きになりようがない。でも、今この瞬間めちゃめちゃ楽しいのでそれでいい。楽しい思いをしたくて、それだけのためにバンドをやっているのであれば、今のメンバーでやっていけばいいと思う。 僕は、好きだからやるのと、やりたいことをやって成功したいからやるのとは少し違うと思っている。僕が音楽をやる目的は、毎日楽しく生きるためだけど、成功するための手段ではない。人を楽しませることは楽しいからやることで、自分も楽しいのでその手段としてやると思う。 話を戻して、ライブはめちゃくちゃ楽しかったし、前奏の時点で既に最高だったし、Hikaruという女の子は本当に歌が上手いなあと思った。あと、客と話すタイミングをバッチリ合わせて、すごく話しかけやすい空気を作ってくれていたし、アンコールでは「私の曲の中で1番かっこいいのがアルバムで1番かっこよくなくてがっかりしました」とか謎の皮肉と怒りを見せて、ライブ中なのにめちゃめちゃ不謹慎だと思った。最後に投げキスをしてくれたけど、あれはライブ中なの?アンコール前なの?アンコール後なの? 僕は、相手が「何を考えているかわからない人」は苦手だ。自分の考えていることが相手に伝わらないのは嫌だ。でも、その嫌いな人はライブ中だから目を見て話してくれるし、あんまり自分の主義主張を押しつけてくる感じでもないので、まあ大丈夫かなあと思った。 Hikaruちゃん推し(推しだからいいのです) 2016年もこんな感じですたい。」
 もうどっから文章が出てきたのかわからないな。この形式で自分が文章を放置したタイミングで生成された文章をそのまま載せていくスタイルは今日でやめようと思う。明日はまたほかのなにかを試してみます。続きも明日。
 バンドで言えば、聞いてみたらマネスキン好きだった。