2020.11.13

ぬか床は買ってからずっと冷蔵庫にいれているのに、寒くなってからぬか漬けが漬かりづらくなって、冷蔵庫内の温度って一定じゃないんだなあと知った。場所によってムラが出るようになったのも、温度の問題なのだろうか。自分で食べるだけだからいいんだけど、難しい。


数年前、久しぶりに会ったときに「ギター、売っちゃったんだよね」と言っていた友人がまたギターを買ったらしくて嬉しい。前に「バンドかなんかやろうよ」と言われたときは「いや卒論と就活あるし…」と言ってしまったけど、会社員意外と暇なので(なにかやろうとすると足りなくはあるけど)なんかできたらいいなあとちょっと思う(いまは向こうがかなり忙しい気もする)。

私を「魂の同級生」と呼んだ友人もまた曲を作り始めたみたいだし、中高のときの友人たちも結局それぞれ音楽をやっているという話は風の噂で聞くし、彼女も私も、当事者側としてあの時間を過ごしてしまった人たち、絶対に純粋な観客には戻れないんだよなと最近思う。

舞台に上がってみたいという欲求がある人について、まあやってみればいいじゃん、くらいな感覚だったけど、やっぱり舞台に上がったことがあるかないかって全然違うわ、と思った。というか、哲学があったかどうかはともかくとして、私は文章を書くより長く、人生の半分以上を舞台に立つ側として生きてきてたんじゃん、と気付いた。才能の有無とは全く別の話だけど、ちょっとびっくり。大学の4年間のほうが人生の例外だったのか。


パリ、いつ行ったんだっけなと久しぶりにFacebookを開いたら、パリとアンマンの写真が部屋で聴いていたチャーリー・パーカーと相まって胸が苦しくなるほど魅惑的すぎてびっくりした。去年の12月の頭はあんなに美しい場所にいたなんて夢のよう。

部屋の写真はたまに撮るようにしているのだけど、もう少し東京の写真も撮っておいたほうがいいのだろうか。いつか東京の写真にうっとりする日がくるのかしら。

なんか文章とか写真とかがいろんなところに散らばっているので、ホームページでも作ってひとまとめにしたい気持ちがなんとなくありつつ。なにその原点回帰。


実家では白湯を湯呑みで飲んでいたのだけど、いまはガラスのコップで飲んでいるので、飲むたびになんとなくお湯割りを飲む気持ちになる。


昔書いた文章が出てきて、「恋人に『愛してるって言って』と言われるけど言えない。『好き』は言えるけど『愛してる』はわからないから言えない」というようなことが書いてあってマジ?と思った。いまの私は愛はわかるが恋がわからないのですが。

でも思い返すと全然意味がわからないけど、当時は恋人のこと好きだったなというのはなんとなく覚えてる。正気の沙汰ではなかったけど良いことも悪いことも今思えば面白くていい思い出だし、書いてないけど思い出すことも普通にあるしねえ。とか書いてることを知られたらものすごく罵倒されると思うけど。

とにかく本当、形式はどうであれ生きていくうえでパートナーと認識し合える人が欲しいなと思うけど、一生とは言わないけど少なくともまだしばらくは無理なんだろうなとも思う。まずもって意図を理解されないし、うまく言えないし、でも言葉にはしたいし。ちょっと落ち込んだけどご飯食べたら直った。自分だけのことなら落ち込んで向き合うのも悪くないけど、他者が関わってくることは仕方ないのでご飯食べてジャズ聴いて良い感じでいるほうがいい。

(第三インターネットの小田朋美に関する文章を昼に読んでいて、羨ましいなとは思ったけど、あれほどの愛とパートナーシップを求めているわけではなく。けど私はあれくらい人を愛せる。愛したいか愛されたいかという問い、愛されたいけど愛するほうが得意だし愛されるのは苦手でファイナルアンサー。これはまだ書いていなかったと思う)。

あんまり書きたくないけどうーん、とずっと思っていた部分のことを(100%の素直さではないけど)なんとなく書いてみた。


久しぶりに人と会う約束をした。