みえない今

家にケチャップがないので、卵に塩を混ぜてオムレツを焼いた。いろんな国で朝食に出てくるオムレツの味がした。このオムレツに半熟は似合わない。これにパンだけだったり、ハムがついてきたり(海外のハムは異常に美味しい)、チーズがついてきたりして、それだけで十分なのだ。今日は昨日買ったイチジクとクリームチーズのブレッドとラ・フランスフレーバーのアイスティーをあわせた。気付いたら俺はなんとなく夏だった。

どうせ家から出ないなら、久々にポニーテールができるまでこのまま髪を伸ばそうと思ってだましだまし髪をセットしていたけど、さすがに限界になってきた。髪色も地毛より明るい茶髪に抜けてしまって嫌だ。在宅なら多少プリンになってもこのまま地毛に戻そうかと思ったけど、外があまりにも夏過ぎて外出しないという実感がわかない。36Lのバックパックを背負って部屋を出たい。

 

真空ジェシカってインスタやってるのかな、と思って調べて出てきたガクカワマタのインスタのストーリーの「今日はなんか、うまそうなのがたくさんありますね」「バンバンジーとバンバンジーでーす」「いや野菜炒めと生姜焼きね」という食卓の映像が良すぎて速攻フォローした。真空ジェシカ、顔を知らなかったので(覚えてないだけかも)、勝手にトムブラウンくらいイカれた人たちを想像してたんだけど、普通に普通の人からいつものラジオの声が聞こえてきてちょっと戸惑った。

 

『ラフターナイト』の振り返りトークといい、ラジ父といい、最近は芸人の手の内を見せるトークをまあまあ聞くなあと思う。マジック全盛期(というか終わりかけ?小学生のころ)に、マジックのネタバレをするマジシャンがたくさんテレビに出始めて、マジックの本の前書きに書いてあった「マジシャンには絶対のルールがひとつあります。それは、ネタをばらしてはいけないということです。」というような文面を思い出して複雑な気持ちになったことを思い出す。面白いしありがたいんだけど、それ話すのってずるくない?みたいな気持ちも少しある。視聴者が”リアル”を求める流れからこうなったのかね。

 

大衆がなにかに熱くなっているところをひとまず静観していた時に大衆の意見と異なる冷静っぽい意見を見かけると、それに対してはよく疑いもせずに「ほらね」となってしまうの、脳のバグだと思う。

平田オリザの発言がずーっと話題になっているからいい加減読んでみようかと思ったのだけど、意見を取り入れようという気持ちならともかく、自分はどっち派か決める必要はないかと思ってやめた。幅広い意見を見てみることは重要だけど、最終的に自分の中で意思を持てばいいだけで、そのあとわざわざ人をジャッジしにいく必要はないんだよな。いやあるときはあるんだけど、今回は別にないんじゃないかと思うのは平田オリザを私が知らないからか。(このへんなんか微妙だから保留)

わからないなあ、なんかもう、建設的な議論というものが机上の空論になっている世界ではどうしたらいいのかわからない。そういうことがたくさんある。

 

今の状況になってからの悩み事が普通に外出するようになったときに消えたら、それはそれで気になりませんか。暇だから哲学が発達した的なことだともいえるけど、フランスに行ったときに感じたその感覚がいまあるわけではなくて、でもたいていの人は解決すればそれでいいのだろうし、理由を求めても仕方ないのだろうな。そもそも今の状況の何らかの負荷が高すぎて、正しく認識できていないことがある気がする。素直な人たちは「友達と会えないのがきついなんて当たり前じゃん」って、理由は言語化できなくてもわかってるのかもしれないね。私はまだそれすらなんかわからない。