部屋の澱

友人とオンライン飲みをしていてふと、「感想を言い合うこととか、感情の共有が苦手」という話になった。恋人との連絡頻度の低さを指摘された(され続けている)友人が、「聞くのは別にいいんだけど、わざわざ自分のことを伝えないというか、言って意味あるのかなと思う」と言っていて「たしかに、感情を伝えることの意味とかなにも考えずに人に話せる人だったら、そもそも彼女との連絡頻度低くないよね」と返答したあとに、それがブーメランとして突き刺さった。

友人に「会おうよ」と言えない今の時期の関係性のメンテナンスを相手に任せてしまうことをやめようと、誰かに連絡することを試みたけど、不自然な気がしてずいぶん前に諦めた。「会おうよ」という連絡は相手に関係することだし、返答に困らせないし、どうせ大体の人は待つ側の人間だから、一歩踏み出してしまえばどうってことないのだけど、相手が喜ぶ意見というわけでもない、着地点のない会話を振るのはためらってしまう。

などと書いているそばから、SixTONESオールナイトニッポンが「ちょうだいよ、バカタレ!」という台詞で終わったことにびっくりして反射的に友人にLINEしてしまった。

結局関係性の問題なのか。というか、相手が100個、クローズドな場で感情を共有してきてやっと、どうしても人に言いたいことができたときになんのためらいもなく共有できるようになるというか。それ結局相手に依存してるな、とか。関係は相互で作っていくものだからそれでいいのか、とか。別に感情を共有することが正解ではないのだけど、なにも考えずにそういうことができるタイプだったらもっと様々なことがスムーズに進んでたんだろうなとか思ったりして悲しくなった。


今日は用があり銀行へ行った。日差しが暖かくて気持ちよくて、これを欲していたのだとまたしても気付く。家にいても暇なりにやることもあるし、暇と言うのも負けた気がするし、と意地を張っていたけど、これは一瞬で戻れなくなりそうだ。ふんわりした要請だけの外出自粛はあまりにも不健全で、なんだかよくわからなくなってくる。

帰り道、本屋が開いていたので、友人に勧められた『A子さんの恋人』の一巻を買った。本棚をじっくりみることはなんとなくできなかったけど、本屋という空間に入れただけでかなり嬉しかった。

 

『A子さんの恋人』はよく聞く名前でずっと気になってはいたのだけど、いかんせん漫画を買う習慣があまりないので手が伸びず、友人が最近読み始めたというので聞いてみたら「内容がどうとかじゃなくて、こいつセンスいいなって友達に勧められて読んで、やっぱあいつのセンスは信用できるわって思うタイプの漫画」と言われたので、「つまり買って読めということだね?」と言って買うに至った。

そういうタイプの漫画として私が推しているのはオカヤイヅミ『ものするひと』なんだけど、エンタメ好きの間であんまり流行ってない気がするのは私が知らないだけなのかな。たほいや界隈の知り合いは読んでいる印象がある。3巻で完結してるのでおすすめです。本屋で『A子さんの恋人』を探していて気付いたけど、出版社同じなんだね。


帰宅して、スツールをベランダに出して本を読んだ。室内より外のほうが暖かい。スツールだとほどよく寄りかかる場所がないので、キャンプ用のナイロンの折り畳み椅子でも買おうかな。自立式のハンモックでもいいな。道路から聞こえる音も、もう全然、どうってことない。


少し前から気付いていたけど、最近片付けても片付けても部屋が散らかる。いつのまにか本が、たった6畳の部屋のいたるところに散らばっている。心が荒むと部屋と水槽が荒れることは経験上わかっているのだけど、無理矢理片付けることはできても、片付いたこと主導で心が整うことはないので、どうしましょうね、という感じ。とりあえずグラタンが食べたいので作る。


空気階段の踊り場、オープニングのかたまりの「ずっと家でドラマ観てると、観て、考えてっていうのがすべてになっちゃって」「大学中退したあと、ずっと家にいて、時々GEOにお笑いのDVD借りに行って」って話が、グッというかウッというか、というか。ウッ…

あと、かたまりが変なこと言っててもぐらがまともなこと言ってるときの会話、いつも異世界に迷い込んでしまったような、得体の知れない怖さがあって好き…(?)