モラトリアムの終わり

子供の頃、いつかの誕生日に両親にもらった『牛を屠る』をあらためて読んだ。去年TBHのbossがphase5までに影響を受けた本として名前をあげていて、もう何年も読んでいなかったけど、なにかを感じた本だったので嬉しかった。

読み進めていたら挟んであった本屋の栞が出てきて、もらったのは平成22年だということがわかったが、その栞の裏側に「22年度住民税の申告は3月15日までに 世田谷区」と書いてあって、最悪な気持ちになった。

父がなぜこの本を私に送ったのかはわからないが、14歳ということは鷹匠かNZで羊飼いになると言っていた頃だった気がする。結局私が獣医にすらならなかったことは、周りからみると結構不思議なのかもしれない。動物に対する好きとか、命に対する考え方とか、人間に対する考え方とか、自分では真っ直ぐなつもりだけど、世間からすると歪なんだろうなあというか、まだ答えが出ない。し、下手に人にも話せない。

当時、この本を読んだあとに家族で焼き肉を食べに行って、父に「よくそれ読んだあとに肉食えるね」って言われたけど、それとこれとは全然関係無い。


伝統的な肉体労働は、いまもキャリアや給料のことを考えなければ、やってみたいな、と思う。ホワイトカラーとは魂が違うから良い。そういう風に生きたい、生きてみたかったなあ。肌感覚が高度文明社会と微妙に折り合いが悪いといつも感じているけど、幸にも不幸にも東京で、それなりに順風満帆に育ってしまった。

この先どうするのかなあ。買ってきた桜の挿さった花瓶の水面をずっと見つめちゃったりして、ここにいるべきなのかわからない。

部屋が暖かいからか、目を離した隙に桜が開花していってる気がする。


砂丘律』を読みながら、エレカシの『ライフ』を聴きながら、水面を眺めながら、誰かと共有できたらいいのに、この感覚、と思う。いろんな感覚のことを。

昔、「もう全部知ってほしいから脳内覗いてもらえたらいいのに」って言ったら「全然わからない」と言われた。

私みたいな人は、工夫を凝らして伝え続けるか、諦めるかしなきゃいけないんだろうなあ。でも画素数を落として曖昧に迎合したくない。わかる人にはわかるをいつまで待てばいいのかわからない。表現者はわかってもらえていいなと思うけど、全然そんなことないんだろうな。

刹那の楽しみを積み重ねているときは、自分の歪さや共有できなさを忘れられるから好きなんだなあ。孤独も、両方好きだけど。心から。


横沢俊一郎が、常人には絶対に口にできないようなドロッドロでぐっちゃぐちゃでぎたぎたの愛の重さをさわやかに歌い上げてるのが、気持ち悪くて大好き。素直すぎて怖い。

なんでも書いてるようにみえて、自分でも見ないフリしてる感情とか、書けない感情とか、いっぱいある。なあ。

 

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数年前から、孤独の底を掘るよりも、人との繋がりや愛に目を向けるべきでは、と思い始めて、今書いたようなものたちをなんとなく曖昧な感覚のまま自分の中にしまっておいたんだった、とブログを書き終えてタイトルをつけたら思い出した。だから若林の「そのネガティブの穴の底に答えがあると思ってんだろうけど、20年調査した結果、それただの穴だよ。」って、『社会人大学人見知り学部卒業見込』の帯の言葉に衝撃を受けて(同じところまで辿り着いて、こんなに綺麗に言葉にしてる人がいた、と)、そんで色々考えてやっぱ結婚したいなあとか思ってたらICOを経て結婚した若林がさあ、大好きだよ。なんの話だ。

とにかく私も卒業見込、というか大学は卒業。明日からもがんばろうね、みなさん。