こちら側のはなし

昼から祖父母の家にいた。昼の情報番組、『相棒』、夕方の情報番組。コロナ、コロナ、コロナ。気が狂いそうだ。狂っているのはこっちなのか?

家にいるときになんとなくテレビをつけるという習慣がなくなってから、とにかく観ていないテレビ番組の音声というのが耐え難い。疲れた。


こちら側のはなし

多分決定的に価値観が違う友人がいて。それも普通が違うじゃなくて、私がこだわってる部分が違う感じの。

それでも私は彼女のことが嫌いなわけじゃないし、それを直せとも思わないんだけど、なんというか新鮮だから「なんで?」って聞いちゃう時があって。


でも責めてるわけでも嫌ってるわけでもないんだよってことがどれくらいの人に伝わるのかな。そんなの当たり前じゃんっていうのは理屈っぽいやつと議論が好きなやつの不文律なだけで、多分そうじゃないんだよね。

だから私が間違ってるんだよねって言っちゃえば済むことなんだけど、間違ってると思わないから言いたくない。面倒くさいやつなのは大いに認めるところではある。もう黙ってたほうがいいんだろうなあと思うけど、普遍的な価値観とは違う意見を持ってるなら主張しておかないと同意してることにされちゃうじゃん。サイレントマジョリティーよ。


でも最近思うのは、社会からみてまともな、社会性のある、いわゆる普通の人たちがいるから、私みたいな社会性のない捻くれ者も生きられるんだよなと。

いや、まともな人たちが正しいわけでも捻くれてるやつらが正しくないわけでもないんだけどさ。というか私は自分が正しいと思うように生きてるんだけどさ。でも、こちら側じゃない人たちのおかげで社会はまわっているなと思う。それが正しいのかは別にして。いや、私には歪にみえてもその人たちの世界にとっては正しいのか。それでいいのか。わかんない。全然よくねえ。

 

 

捻くれ者という言葉を免罪符にして自分の正義を主張している。自己否定と調和で成り立つ世界では、緩衝材という浮き輪を使わないと息苦しい。本当は自分で立てるんだけど。立てるのに浮き輪を使うのはちょっと美学に反するけど、なんかもうそこまでの反骨精神を張るのはきつくなってきた。というかみんなも足がつくのにさ。もうその世界が息苦しいって。


当たり障りのないことが優しさなのか。理解しようとすることは、いま相手のことを理解していないと示すことだから優しくないのか。んなわけねえだろ、手前が自己否定拗らせてんのが悪いんじゃボケっていまの私は言わない。思ってるけど言わない。優しくないから。それで世界は回らないから。でもそれとなく主張するのだ。それが世界を良くすると思うから。


人のためになにかしたいと思ったことはないけど、最近は世界に対する優しさや愛が芽生えてしまった。面倒くさいものを背負ってしまった。なんのために戦っているのか、世界が良くなるとなんなのか、全然わかんないけど良くしたいと思う。みんなが生きやすくなってほしいよ。と願う生き方は苦行。表面的にぬるっと回しといたほうが絶対楽。でもできない。意味わかんない。

愛と優しさが芽生えてひとつ知ったことは、その見かけの美しさがあるとあちら側の人間にも理解されやすいということだ。あーそうですか。

正義から葛藤を抜き取って耳ざわりのいい浅さの言葉で語って褒め合ってるそちら側が心底羨ましい。

 


こちら側にしかわからないはなし